はじめに
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さて、宣伝は以上にしましてタイトルにある着物業界についてこれから自分なりにデータとかみながら考察していこうかなと。これまで過去のツイートで着物業界の小売市場規模の推移について軽く触れたことがあります。
少し前のデータ。
これを見ると呉服業界の落ち込みが分かりますね。
高額化により市場規模を維持しようとした業界の動きとその後のバブル経済の崩壊が大きく影響したと言われてます。
近年ではカジュアル化の動きもみられてます。
元々2兆円規模の業界なだけにどれだけ戻るか...
これからですね! pic.twitter.com/wbjLMEOksY— かふぁ@jingoro (@Cafa_jingoro) November 20, 2020
昨年の11月ごろから、自分なりに情報を集めたり着物業界の人の話を聞いたりして勉強をしてきました。
自分の勉強してきた知識をまとめるため、また呉服業界の現状を知ってもらうために本記事を作成します。
着物とは
簡単に着ることのできる着物やお家で洗うことのできる着物など便利な着物が最近出てきましたが、そのようなものに対して『こんなのは着物じゃない!!』という方がSNSにて時々見かけます。そこで「着物」の定義はなんだろうと疑問に感じたので着物の定義について調べてみました。
和服:日本在来の衣服で、近年来、日本の民族衣装とよばれているものの総称である。明治に西洋の衣服が輸入され、これを洋服とよんだ。これに対して従来の日本の衣服を和服とよぶようになった。一般に和服といえば「着物」という印象で、和服=着物の同義語として用いられている。和服は日本で発達した衣服で、広義には日本で古くから用いられてきた様式の衣服すべてをさすが、狭義には長着、羽織、帯、長襦袢(じゅばん)、肌襦袢、裾除(すそよ)け、コート、男子にはさらに袴(はかま)、褌(ふんどし)を含み、ほかに和装具として足袋、履き物などが加わる。
-引用(コトバンク)
我々が普段着物と言われてイメージするものですねwそのそもは着物は衣服全般を指す言葉でしたが最近は和服や呉服などを指す言葉となっています。で、この『和服』『呉服』の違いは何かというと、【和服】:綿、【呉服】:絹の製品となっていますが現代では両方ひっくるめて和服と呼ぶことが多いと思います。
実はこの【和服】という呼び方は明治以前の日本には無い呼び方でした。江戸時代には呉服問屋という言葉はありましたが着物のことを和服とは呼んでいませんでした。
もともと着るものという意味で着物と呼んでいたので当たり前といえば当たり前ですが、明治時代に西洋の人たちが着るもの【洋服】に対して、日本人が従来来ていた着るものを指す言葉として【和服】が誕生したとされています。
海外では"kimono"といえば日本固有の民族衣装のことを指します。
ということなので、「これは着物じゃない」というのは違くて、正確には「これは和服ではない」とでもいうのでしょうか...笑
まあ、そもそも着物に明確に定められたルールというのは合わせが右が下で左側が下に来るように着る「右前」くらいですね。
着物の歴史
縄文時代
縄文時代は狩猟で手に入れた動物の皮や植物の皮、羽毛などを用いてワンピースのような形状の衣服を着ていたといわれている。体温調整や狩猟時の体の保護が目的。
弥生時代
魏志倭人伝によると、「日本人の男性は巻布衣(かんぷい)を、女性は貫頭衣(かんとうい)を着ていた」とされている。
巻布衣:一枚の布を体に巻きつけた衣服で、貫頭衣とは布の中心を切り頭を出すワンピース型の衣服のこと。縄紐を腰に巻いて着用。
貫頭衣:体温調整を行いやすくするために、やがて両脇に袖が縫い付けられるようになった。
また、,弥生時代には朝鮮半島から絹糸を織る技術や布を織る「機織具(はたおりぐ)」が伝来しており、身分の高い人物は絹の衣服を着ていたとされている。一般の身分の人は麻などの植物繊維を用いた衣服を着ていた。
弥生時代の衣服が着物の起源とする説も多い。
古墳時代
古墳時代は、上下が分かれたツーピース型の衣服を着ていた。大陸との交流が盛んになり、異国文化を取り入れた形となったと言われている。
男性は、筒状の袖である筒袖(つつそで)がついた上衣に、足結(あゆい)というズボン状の下衣を合わせて着用していた。膝のあたりを紐で縛って留めています。
女性は、同じく筒袖がついた上衣に、衣裳(きぬも)というスカート状の下衣を合わせて着ていた。
現在とは異なり、どちらも左前で着るのが一般的だったと言われている。また、古墳時代になると弥生時代の時よりも高性能な機織り機が伝わり複雑な衣服も織れるようになった。
古墳時代になると養蚕も盛んにおこなわれるようになり絹織物もこの時代から発展し始めたとされている。絹の普及はされていたが来ていたのは上流階級の貴族で一般の人は植物繊維由来の着物を着用していた。
飛鳥奈良時代
着物の歴史についてみていこうと思います。先ほどの項目で着物のルールは右前くらいと記載しましたがそのことについて補足します。
着物というものは元をたどれば奈良時代に遣唐使の派遣により唐(現在の中国)の文化を取り入れるようになり、唐で主流だった漢服です。
漢服とは、袖口が大きく開いていて全体的にゆったりとした衣服のことです。裾は膝下まで長く続いています。
また、飛鳥時代には聖徳太子が「冠位十二階」を制定し、身分によって冠と衣服の色が定められるようになります。その後、奈良時代には「三公服」が定められ、身分によって礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)の3つの衣服を着分けるようになりました。
しかし、このような衣服を着ていたのは身分の高い貴族階級の人たちのみでした。庶民の服装はというと胡服(こふく)という動きやすく体にフィットする衣類を着ていました。
719年に衣服令(えぶくりょう)が定められ、そこには「発令天下百姓右襟」とありどんな身分の人でも衣服は右前で着用するように定められました。この衣服令が、現在の着物の右前の由来となっています。
右前豆知識
着物の着装方法を右前に統一したこととはまた別に、日本では「左を上位とする考え方」がありました。たとえば、左大臣と右大臣では、左大臣のほうが地位が上です。
亡くなった人は神や仏に近づくと言われ、上位である左前に着付ける風習が始まったのです。左を上位とする考え方は「天皇は南を向いて玉座に座るのが正しい」とする考え方に基づくものです。
南を向いた天皇から見ると、太陽は左側からのぼります。太陽がのぼる方向を上位とする考え方は、江戸時代まで続きました。
欧米などでは右を上位とする考え方が根付いており、現代では日本も右上位の考え方に習っています。
平安時代
菅原道真により遣唐使が廃止され、ここから日本独自の着物の進化を遂げたと考えられています。
庶民は、現在の着物の原型とされている小袖(こそで)を着るのが主流となりました。
公家などの身分が高い人物たちは、束帯(そくたい)や十二単(じゅうにひとえ)を着るようになったとされています。どちらも袖がゆったりとした大袖(おおそで)を重ねて着る点が特徴です。
重ね着の文化は、天候の変化が大きい日本の気候に適応するために生まれましたが、やがて支配階級の権力を表す象徴となりました。
庶民は労働に向いた軽装の小袖を着て、あまり活動的である必要がない公家などは重厚な大袖を着るという構造になっています。
また、平安時代には染色や織物の技術が発展したことにより、衣服の色や柄が豊富になりました。
このように、平安時代は着物の歴史に大きく影響を与えた時代だと言えます。
庶民は着物を着たまま作業をするため小袖が広まりました。日本人は右利きが多く右前の着方だと動作において違和感が出ることが少なく動きやすいため右前は律令で定められなくても自然と右前になっていたのではないかと考えています(これは自論ですm(__)m)。
鎌倉時代
農民から武家に成り上がった者たちは、かしこまった場では公家と同じ大袖を、日常生活では今まで通り小袖を着て生活していた。鎌倉時代は武家の勢力が増していったが特にこれといった変革はおきなかったとされている。
室町時代
武家は、重要な儀式では公家同様の大袖を着用し、通常の儀式では武家独自の大袖を着用し、日常生活では小袖を着用して生活するように変化します。
室町時代の後期には商業をする町人も現れだし、絹製品を着る町人も出始めたころ。
室町時代には鎌倉時代と異なり、絹を用いた袂(たもと)のある小袖を着るのが主流となった。袂のついた小袖は、通常の小袖と区別するために「着物」という呼ばれ方をされるようになりました。このころには公家を除くほとんどの人が小袖を着るようになったとされている。
安土桃山時代
戦乱が終わり平和が取り戻された安土桃山時代には、非常に豪華な安土桃山文化が発展し、数多くの美術工芸品が作られました。
着物の染色技法が発展したのもこの時代で、当時生み出された染色技法が現代の着物に用いられています。
また、安土桃山時代の着物は、男性は肩衣袴(かたぎぬばかま)、女性は打掛姿(うちかけすがた)が流行しました。
江戸時代
江戸時代には衣服に使用できる素材や色などが身分によって制限が設けられた。商人が豪華な色や高級素材の着物を着る一方、庶民が着用できる着物は麻素材または綿素材で、茶色・鼠色・藍色の着物のみに限定された。
その影響があってかこの時代には様々な帯の結び方がされており、着物の色や柄で楽しめない分帯で自分を表現するという着物の楽しみ方は江戸時代からと考えられます。江戸時代後期には帯揚げや帯締めを用いた帯結びも主流となった。
武士はというと、それまでの大名が藩という形で地方をまとめており各藩では裃(かみしも)とよばれる衣服が制服に採用された。この裃というのは上半身が肩衣(かたぎぬ)・下半身が袴となっている着物のことで、小袖の上に着用するもの。
明治時代
明治時代は開国によって外国の影響を受け、衣服にも変化が訪れます。
どの身分の人も今までは着物を主流で着ていましたが、宮中の礼服は洋服を着るように定められました。それにより、上流階級から徐々に洋服の文化が根付き始めます。
洋服の文化が根付くまでの間、庶民の中では鼠色を基調とした生地に友禅染をあしらった着物が流行していました。
大正時代
大正時代には洋服の文化が普及し、洋服を着る人口が増えました。
着物を着る人も多く居ましたが、柄や色合いが西洋風に変化し、海外の植物を描いた着物などが流行しました。
また、大正時代には袴にブーツを合わせるなど着物と洋服を混ぜ合わせたファッションも発生し始めます。男性は着物にトンビコートを合わせるなど和洋折衷のコーデのもととなるのはこの大正時代であると言えます。
昭和・平成・令和
戦後から現在に至るまで、着物を着る人口は減少していっています。
着物を着るのは成人式や卒業式・結婚式などのかしこまった場面のみになりました。花火大会や夏祭りでは、浴衣を着て楽しむ方もいます。
日本人で着物を着る方が減った一方、平成や令和では外国人の着物ブームが到来しました。
訪日観光客が、着物を着て観光をすることが増えています。
現代でなぜ着物を着る人が減っていったのか次章で考察していきたいと思います。
着物人口の減少した理由について
直近10年間の呉服業界の売り上げ推移のグラフとなっています。こちらの図を見てわかるように、年々売り上げが右肩下がりになっているのが分かると思います。3000億からの減少で2380億円で20%減で10年間で20%減もなかなかですけどもっとやばいのが1980年代の着物業界の売り上げって1兆8000億円なんですよね。1980年代から40年間で1/6にまで売り上げが減少しているのです。
着物業界は1980年に1兆8000億円の売り上げを記録していますし、着物は日本の伝統衣装であるため着たいと思う方は沢山います。業界全体として2兆円の事業規模を目指せるポテンシャルがあると言われています。
ここからV字回復していくと想像するとわくわくしませんか?
というわけでここからは着物業界がなぜ衰退していったか考察していきたいと思います。
原因その1:敷居が高い
着物が敬遠される理由としてまず、着物というものの敷居が高いということがあります。イメージとして着物は結婚式や卒業式など特別な式典の際に着るものと特別なものという認識の方が多いと思います。特別なものという認識でも良いと思いますが、普段着でも着ていいよ!というのを伝えていきたい....とは思ってはいますがまずは原因から改善しないことには着てみようという人は増えないので原因から見ていきましょう。
原因として、ちゃんと着なくてはいけないというプレッシャーがあったり、着物をきると目立ってしまったりするから恥ずかしい、着物ってどこで買えばいいのか分からない、成人式の振袖などで過ごすのにきついという印象がある、などなど若年層を取り込めていなく、顧客層も高齢化していきすでにたくさん着物を持っている方も多く新規で買う人も少ないのが要因であると考えています。
原因その2:着物警察
着物を着たくない理由の一つに着物警察の存在があります。着物警察というのは本当の警察機関というものではなく着物のルールやマナーについて個人的な価値観を一方的に押し付けてくるような人のことを指します。
着物警察のターゲットにされるのは若い女性が多い傾向があります。どのようなことを言われるのかというと、街中でいきなり呼び止められ「帯の結び方が変」「着物の素材が~」などといわれれたりするそうです。
このようなことをせっかくの出先で言われると楽しい気分も台無しになりますし、着物をなんとなく敬遠してしまうようになってしまいます。着物は変化してきたことで文化として発展、継承されてきました。押し付けている価値観は正しい内容かもしれませんがそれがすべてではありません。
そのルールは戦後にできた着物の商用ルールなんですよね。着物全体の歴史の中ではそんなに時間が経っていないものとも言えます。変化を受容できることもまた大切だと思います。
多分指摘している人は親切心で言っている方も多いと思います。もし気になって教えてあげたい場合は相手が怖がらないように配慮できると言われた側も嫌な思いはしないかと思います。着物好きなもの同士仲良くしていきたいですね♪
また、温かい言葉をかけてくださるととっても嬉しいので褒めるのは全然ありだと思います!
原因その3:気候
他の原因として着物を着る季節が難しくなったというのもあるかと思います。着物は基本的に重ね着ですので夏は暑いですw
なので、絽や紗などの夏用の着物や浴衣などを夏に着ることが多いですね。夏用の着物とかは肌に張り付きにくい素材でできていたり、適度に汗を吸ってくれるので着ていて不快感とかは少ないかと思います。
着物の将来について
着物というのが今後どのようになっていくのかを考えるとこのまま何も対策がなされないと文化として継承していくのが厳しいのではないかと思っています。現状年々売り上げも右肩下がりで来ていますし、旅行地では着物レンタルも盛んになっていましたがコロナの影響によりそちらの売り上げも芳しくない状況...
影響を受けているのは着物を売る呉服店だけではありません。着物が売れないということは着物の反物も売れなかったり帯も売れなくなるためそれらを製造している職人技術が失われることに繋がります。以前までは100本単位で帯を仕入れていても捌ききれていたけれど既に帯を沢山持っている人が多く新規で購買されることも減り、着物を着始めようとする人も少ない状況です。
そのため帯を仕入れて販売する業者も面白い柄や素材の帯があってもなかなか発注できなかったり負の連鎖が続いているのが現状なのかなと思います。
TVとかでは取り上げられないですけど着物の会社かなり倒産をしていたり、自転車操業的になっているような会社もあると聞きます。着物文化を守り伝えていくためには若い世代に着物に興味をもってもらえるようにする必要があると思います。
自治体でもイベントとして着物を取り入れている自治体も多いです。
着物ウィーク in 萩 萩市観光協会「ぶらり萩あるき」 (hagishi.com)
山口県萩市では毎年10月に萩市観光協会が主導で着物のイベントを開催しています。
①着物レンタル・着付け(有料)
②着物割引
③和の学び舎
④写真撮影&フォトプレゼント
⑤フォトコンテスト
などなどいろんな企画が開催されています。この期間は街中に着物を着ている人が多いので目立つのが恥ずかしいという方にはまぎれて楽しめるチャンスだと思いますw
フォトコンテストもいい写真をとることができるのでインスタ映えするのでおすすめですね!
このほかには関東地方だと埼玉県の川越市で川越きものの日というものが開催されています。
こちらは毎月8,18,28日に行われています。この日は協賛しているお店に着物姿で来店すると割引やサービスドリンクなど特別な特典を受けることができます。
新規参入を促すようないろんな工夫がされているので若い世代に着物に興味を持ってもらい楽しみながら文化として継承していきたいものです。
情報発信をすることによりまずは着物が縁遠い存在ではないよということを伝えていくことが着物文化を広める第一歩だと思っています。ぜひ着物に興味がある方に身近に感じて貰えたらうれしいです。着物を広めるために頑張っていきますので応援のほどよろしくお願いします(*'ω'*)
製作:かふぁ